志朗と笑顔になる社会を作っていこう

志の会について

 

はじめに志という一文字に惹かれたのは小学生の時に読んだ「男児 志を立て 郷関を出ず」のがテーマの漫画でした。漫画の主人公が凛々しくて印象に残りました。大学を卒業して、期するところがありメキシコに行きました。そこである日系人の家庭を訪ねたときに一幅の掛け軸がリビングに飾ってありました。そこに書いてあったのは「男兒 立志 出郷関 學若無成不復還」小学生の時に読んだ漢詩でした。おそらく一世の人は、そういう気持ちで日本を出てきたのでしょう。

そして、この「志」という一字について、意味を教えていただいたのが、メキシコでお会いした妹尾隆彦先生でした。

 妹尾先生の人生は数奇な生涯だったと言っても過言ではないと思います。妹尾先生は、1920年香川県丸亀市に生を受け、大阪税関に勤務した後、第二次世界大戦で招集され、ビルマ(現ミャンマー)で日本陸軍の兵士として、ビルマ(現ミャンマー)のカチン高原にいた英国とインドの軍隊の情報収集の任務に従事されていたようです。ここでカチン族と知り合います。部落の入口に、いけにえの首をのせるための首かごが無気味に吊るしてあるので、首狩り族と呼ばれ他の部族からは恐れられていました。このカチン族の協力でジャングルでの任務を遂行していきます。

日本軍の敗色が濃ゆくなり、所属部隊はカチン高原を撤退しますが、先生は単身カチン族の部落に止まりました。共同生活をしているうちに住民の信望が厚くなり、懇願されて22歳で総人口30万人のカチン族の王様になりました。ここで憲法を起草し、法律を作り、裁判所も設置してカチン国として独立国家を目指しました。終戦後、日本に戻り、大蔵省、運輸省勤務を経て大阪市港湾局、大阪市助役(現副市長)になりました。

大阪市役所在任中、1970年の大阪万博時に訪日していたメキシコのエチェベリア大統領の知遇を得て、その時の大統領の要請により、1975年大阪市役所を退職後、76年大統領顧問として渡墨しました。目的はメキシコの青少年に剣道の指導を通して、日本の文化を教えることでした。先生の尊父は香川県で剣道の道場を経営していました。四国の剣道界では大変有名な方で剣道のテレビドラマのモデルになったほどです。

先生はそういう父のもとで、小さい頃から剣道を学ばれました。

先生とは仕事を通して面識を得ました。

ある時、論語に「吾 十有五にして学を志、三十にして立つ」の「志」はどういう意味だと思うかと尋ねられました。おそらく、メキシコに来たのは、一旗揚げるために来たのだろうと思われていたのだと思います。当時の自分には明確に答えることはできませんでした。出世する、金持ちになるというようなことを答えたような記憶があります。すると孔子はそういうことを目指して学を志したのではないよ。人や社会をよくするために学を志したんだよと教えていただきました。この言葉は胸の奥に深く残りました。

そして、志朗の兄と姉にも「志」の一文字が入っています。

NPO法人志の会の名称は、志朗の「志」から取りました。志朗がキックボクシングを始めたころ、K-1人気でしたが、強ければいいという風潮には、なぜかなじめませんでした。妹尾先生を始め、メキシコで心を惹かれた日本人は、貧困層の子どもや若者のために働いている人でした。志朗は中学を卒業して単身でタイのムエタイジムで寝泊まりをして、貧困というのを学んだと思います。プロでデビューして「タイに恩返しをしたい」と言ってきたのは、貧困であえいでいる子どもたちを間近に見て、何かをしたいという気持ちからだったと思います。

志朗は、格闘技で名前を少しは知られる選手になってきました。

志朗を通して、社会の一隅に少しでも光を与えることができたらと思います。志朗の志が社会の一隅を照らす光になってくれればという気持ちを込めて会の名称にしました。

NPO法人志の会 理事長

松本弘二郎

■妹尾隆彦先生について

写真に写る和服の後ろ姿の日本人が妹尾先生である。先生の前にいる彼らが身に着けている防具は、おそらく妹尾先生が日本から持ってきた中古の防具だと思う。資料によると、メキシコで剣道が始まったのは1975年、ナシオナル・アウトノマ・デ・メキシコ大学(UNAMウナム)と日本人学校のリセオの同好会のような感じで始まったという。日本人学校に赴任してきた日本人教師が始めたのがきっかけになったかもしれないが、1977年に妹尾先生は来墨し、翌年にGOUYU KENSHAという剣道の道場が建設されたとのことだ。

それまでメキシコ国内には、二つの剣道グループがあったようだが、1979年に一つにまとまり、1980年に第一回目のメキシコ全国剣道大会が開催された。そして1981年にサンフランシスコで開催された国際剣道連盟の理事会で、正式にメキシコの参加が認められたのだった。妹尾先生が来墨した目的は、日本大使館の要請があったのか、メキシコ内にあった二つのグループを統一し、剣道の全国大会を開催することだった。これらが国際剣道連盟で認めてもらうための条件でもあったのだ。

現存する資料を読むことで、妹尾先生のメキシコでの功績について、初めて知ることができた。

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